今回は混声合唱曲「我が抒情詩」の歌詞の意味を考察していきます!
是非最後まで見ていってください!
「我が抒情詩」の曲概要はこちら→混声版「我が抒情詩」(千原英喜)を紹介! 合唱曲解説 | 合唱曲紹介屋tam
楽譜の購入はこちら
はじめに
「我が抒情詩」は、詩人 草野心平(1903〜1988) によって書かれた詩です。
草野心平は第二次世界大戦中、満州に滞在していました。
この詩は、詩集『日本砂漠』に収められています。
『日本砂漠』は、戦後に日本へ戻った草野が初めて刊行した詩集であり、
戦争を経た日本社会の混乱や虚無感が色濃く反映された作品群です。
先の見えない戦後日本。
「生きるとは何か」「人はなぜ生き続けるのか」
そうした問いと絶望が、この「我が抒情詩」には強く刻まれています。
「我が抒情詩」の前半の歌詞と考察
くらあい天(そら)だ底なしの。くらあい道だはてのない。どこまでつづくまつ暗な。くらあい道を歩いてゆく。どこまでつづくこの暗い。道だかなんだかわからない。うたつておれは歩いているが。うたつておれは歩いているが。おれのこころは。どこいつた。おれのこころはどこにいる。きのふはおれもめしをくひ。けふまたおれは。わらつていた。
空も道も暗く、終わりも底も見えない。
ここには、戦後の日本社会の先行きの見えなさがそのまま映し出されています。
目的も希望も見えないまま、
生きるためにただ生きている姿が描かれているように感じられます。
絶望していても、人は腹が減る。
生きる意味を見失っても、人は笑ってしまう。
それは楽しいからではなく、
どうしようもなく生きてしまっているという、
人間の逃れられない現実を表しているように思えます。
「我が抒情詩」の後半の歌詞と考察
ここは日本のどこかのはてで。きのふもけふも暮らしている。都のまんなかかもしれないが。どこをみたつてまっくらだ。去年はおれも酒をのみ。きのふもおれはのんだのだ。こころの穴ががらんとあき。めうちきりん、めうちきりんにいたむのだ。ここは日本のどこかのはてで。きのふもけふも暮らしている。都のまんなかかもしれないが。どこをみたつてまっくらだ。どこをみたつてまっくらだ。
「日本のどこかのはて」と言いながら、
「都のまんなかかもしれない」と続くこの表現。
これは、場所の問題ではありません。
都市であろうと地方であろうと、
人々の心が暗闇に沈んでいるという比喩です。
中盤に出てくる酒。
酒は、苦しさや空虚さを一時的に忘れるための手段です。
しかしどれだけ酒を飲んでも、
心の穴は埋まらない。
「めうちきりん」とは「普通では考えられない、不思議なさま。」のこと。不思議なほど、心は痛んでいます。
そして詩は再び、
「ここは日本のどこかのはてで」
「どこをみたつてまっくらだ」
という言葉に戻ります。
絶望から抜け出せない、終わりの見えない循環。
それこそが、この詩の世界です。
おわりに
「我が抒情詩」は、
とにかく暗く、救いの見えない詩です。
しかし、その暗さは単なる絶望ではありません。
それでも生きてしまう人間の姿を、
正直に、容赦なく描いた詩だと感じます。
歌うときは、
感情を大きく表現しすぎるよりも、
淡々と、しかし内側に重さを抱えながら歌うことで、
この詩の本質が伝わるのではないでしょうか。
ぜひ、歌詞を噛みしめながら歌ってみてください。


コメント