今回は女声合唱曲「棗のうた」の歌詞の意味を考察していきます!
是非最後まで見ていってください!
はじめに
「棗のうた」は詩人の岸田衿子によって描かれた作品です。
この詩が描いているのは、
「何も起こらない人生」と、それでも確実に減っていく時間です。
象徴になっているのが「棗(なつめ)」。
棗は甘い実。
保存がきく、少しずつ食べるもの。
つまりこれは、
限りあるものを、日々少しずつ消費していく行為
の象徴です。
そしてそれはそのまま、
人生の時間と重なっています。
楽譜の購入はこちら
前半:棗=時間・いのち
まいばん棗を一つずつ食べたので
まいばん棗が一つずつ減りました
ここには感情の起伏がほとんどありません。
ただの事実の繰り返し。
でもこれが怖い。
特別な事件がなくても、
時間は自動的に減っていく。
そして出てくる問い。
もしも 棗が一つもなくなったら
わたしはなにをして
夜をすごせばよのでしょう
これは「死んだらどうなるの?」という問いではありません。
むしろ、
自分の人生が終わったとき、私は何を持っているのか
という問いです。
「夜」は人生の孤独の時間。
棗はその夜をやり過ごすための“支え”だった。
それがなくなったら、
自分には何が残るのか——。
中盤:なかった人生
次の連では、人生の“イベント”が並びます。
時計塔の下で一目惚れする恋いもなく
泣く泣く別れを惜しむ 古里もなく
ここに出てくるのは、物語の中にありそうな人生。
-
ドラマみたいな恋
-
涙の別れ
-
帰る場所
でも語り手にはそれが「ない」。
つまりこの人の人生は、
大きな出来事のない、静かすぎる人生。
そして最後の一行。
子犬も鳴く
自分の感情は出さないのに、
子犬の鳴き声だけが置かれる。
これは、
言葉にならない寂しさ
理屈じゃない孤独
を代わりに鳴いている存在です。
後半:棗と夜が同じ速度で消える
まいばん棗は一つずつ減って
まいばん夜更けは一つずつ去って
棗と夜が並列に置かれます。
つまり、
棗 = 夜を越えるための糧
夜更け = 人生の時間
どちらも同じリズムで減っていく。
人生は特別な出来事ではなく、
「夜をやり過ごすこと」の積み重ねだった。
最後の一つの棗
わたしは最後に一つの棗を食べました
盛り上がりはない。
劇的な結末もない。
ただ、最後の一つも食べた。
これは、
人生を生き終えた瞬間
あるいは
自分の支えを使い切った瞬間
でもここに絶望は書かれていません。
静かすぎるほど静か。
それは、
この人の人生そのものがそうだったから。
この詩が伝えていること
この詩は、
「何もなかった人生」
ではなく
「何も起こらなくても、確かに生きていた人生」
を描いています。
ドラマはなくても、
恋の名場面がなくても、
故郷との別れがなくても、
それでも人は夜を越えてきた。
棗を一つずつ食べるように。
この詩の寂しさは、
同時にものすごく人間的なリアルさでもあります。
私たちの多くの人生もまた、
こういう静かな減り方をしているからです。
おわりに
この詩は、派手な物語を否定し、
“ただ生きて減っていく時間”そのものを見つめた詩です。
棗は小さい。
でもそれがこの人の夜を支えていた。
人生もきっと同じで、
他人から見えない小さな支えで、私たちは毎日を越えている。
だからこの詩は悲しいけれど、
同時に、どこか優しい。
静かな人生に、静かな光を当てる一篇なのです。


コメント